瀬戸大橋・・・

昨日の「雨」がウソのような晴天の下津井吹上です♪
気温や天気の変化について行けずで風邪を引きましたkadonoです
皆様、風邪引くとしんどいですよ・・・体調などお気をつけください・・・
さて今回は・・・雰囲気を変えて少し真面目なお話をさせて頂きます。
先日ふっ思った事がありました・・・毎日、目にしております巨大構造物「瀬戸大橋」・・・
この方はただデカくて、長いだけじゃない!!作るの大変だったろうなぁ・・・と
ちょこっと調べてみると・・・・こんな感じになりました↓↓↓
瀬戸大橋の着工は1978年10月10日 9年6ヶ月の月日をかけ1988年4月10日に完成しました
橋の上部を車、下部を電車が通る「鉄道道路併用橋」で6つ橋梁とそれらを結ぶ高架橋により
構成されている世界最長の「鉄道道路併用橋」で、その偉大さは衛星写真でも確認出来る程です。
橋梁は「吊り橋」「斜張橋」「トラス橋」の3種類で構成されており、下部の鉄道部分は現在
在来線が通る線路が橋の中央に二本、暫定的に敷設されておりますが、実際には
四本敷設できるようになっており、将来的には「新幹線」の乗り入れも可能な仕組みとなっております。
それでは何故「瀬戸大橋」は出来たのでしょう?
本州と四国を結ぶ橋「瀬戸大橋」のできるキッカケは悲しい海難事故でした。
昭和30年、本州と四国を結ぶ国鉄連絡船「紫雲丸」が潮の流れの影響で貨物船とぶつかり沈没、
乗船していた多くの修学旅行中の小学生や船員168名が犠牲となったのです。
元々、瀬戸大橋のある海域は、潮の流れの変わりがとても早く地元の漁師さんもあまり近づかない
海域でした。「そんなところに橋を作ると、また潮の流れが変わってしまい、ますます漁が出来なくなる・・」
そう思った地元の人達は橋の建設に反対しました。
しかし、ひとりの香川県議員が反対している住民の人達の意見を聞き、
どこまでなら譲歩が出来るかを探り、一方で国に対してどこに橋を建設すれば海の生体に影響がないかを
調べさせ、その結果を元に住民との話し合いを何度も行い、ようやく建設の許可をもらいました。
こうして本州側「岡山県倉敷市児島」 四国側「香川県坂出市坂出」塩飽諸島5つを結ぶ位置に
着工が決まったのです。
「橋を架けて良い」と許可が出たら責任者を決めなければいけません。
そこで白羽の矢がたったのが当時国鉄(現在のJR)職員「杉田 秀夫さん」でした。※以下「杉田」と記
 
彼は、瀬戸大橋以前にも海底トンネルや橋を建設するなど実績を持った人で、彼をよく知る人は
みんな口を揃えて、こう言ったそうです「男が惚れる男!それが杉田だ!!」と・・・
杉田が責任者になり、まず最初に行ったことは地元住民との会話でした。
多くの住民から工事の際に起こりそうな不安や様々な要望を聞き、時には胸ぐらを掴まれたり
石を投げられたりした事もあったそうです。話し合いは実に500回以上行われたといいます。
杉田は、出来るだけ住民の方と同じ目線でいようと考え、前任の工事関係者が運転手付きの社用車を
利用していたのと違い、自ら住民たちのすぐ近くに住み通勤はいつも自転車だったそうです。
やがて住民たちは段々と心を開いて打ち解けて行き、スムーズに工事を進めて行ったのです。
そんな杉田の身に不幸が訪れます。
瀬戸大橋の工事中に奥さんが病に倒れたのです・・・
しかし、この事実を誰にも言いませんでした。自分の3人の娘たち、工事関係者、地元の人たち
そして奥さん本人にも「ガン」と言う病名は伏せて全てを抱え込んだのです。
そんな杉田の一日は、毎朝5時に起き、娘たちの朝ごはんを作り送り出した後、奥さんの病院に行き
身の回りの世話をし、そのまま出勤して仕事を行い、仕事を終えて奥さんの病室に顔を出し
身の回りの事を終えると、自宅に帰り 娘たちの夕食の準備をする・・・といった大変な毎日でした。
しかし、そんな大変さを微塵も見せること無く職場では冗談を言って仲間を笑わせたり
時には、励ますなど理想の現場監督として働いていたそうです。
瀬戸大橋の基礎となる部分の海中工事は、最も深い地点で海底50メートルにもなりました。
杉田は「工事中に海底の状況を見てすぐに対応への判断を下さなければならない時がある
それを素早く行う為には、責任を負える立場にいる自分が、その場に居るのが一番であり当然の事だ!」と
潜水師の資格を取り、自らも海中の工事に立ち会いました。
作業は、約3ヶ月 延べ300回の潜水 時間にして400時間あまりと過酷なものでした。
瀬戸大橋の工事中に奥さんは亡くなりました・・・・
生前、奥さんは杉田にあるものを渡していました。それは小石に自分の名前を書いたもので
橋の基礎になる部分の工事が終わった時、工事の関係者がそれを祝い
ケーソン(鋼鉄で出来た型枠 橋の土台の部分)の中に名前を書いた小石を放り込むことになっていました。
奥さんは瀬戸大橋が無事に完成することを祈って小石に自分と娘たちの名前を書き、それを一緒に
放り込んでくれるように頼んだのです。
工事中、杉田は大切にしまっておいた小石を取り出し、それに書かれている名前を見つめ
「瀬戸大橋を架ける」という思いを改めて心に誓っていたそうです。
そんな数々の苦労の末、着工から10年1988年4月に「瀬戸大橋」は見事完成したのです。
かつて杉田と共に瀬戸大橋の建設に携わっていた者は、こう語っています。
「彼は、問題が起きた時には全て自分が引き受け、工事に関するあらゆる面で先頭に
立ち引っ張ってくれました。彼のウソのない誠実な人柄によって問題はうまく解決し
彼に対する地元の人達の信頼は大変なものでした」
瀬戸大橋が完成して5年後に「瀬戸大橋をかけた男」は、娘3人に見守られながら
62歳の生涯を閉じたそうです。
本州と四国をつなぐ橋を架ける!!これは本州と四国に暮らす人々にとっては長い間の悲願でした。
かつて明治の時代に「本州と四国を結ぶ橋」を初めて提案した人に住民は口々に
「何を夢みたいなことを言ってるんだ!!」と笑ったそうです。
その「夢みたいなこと」が現実となり 今 私達の目の前に架かっています・・・・
何気なく毎日、目にしているデカい構造物「瀬戸大橋」・・・・
なんだか誇りに思う今日この頃です♪
※長文、乱文失礼しました。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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